BLACK MOON, Model Yusei Yamamoto, Shot by Yokna Patofa

Wednesday 16 January 2013

愛のコリーダについて、変わってない意見もあるので、書き直さずに


人生とはあの静かな笑顔に集約される
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5 点
投稿日時: 投稿者:さん
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‎_ 愛のコリーダは、シーンとシーンのつなぎ目がわからない。肉の間をかきわけて、産み出された時の事を思い出すような。自分の視界では収まり切らない巨大存在に触れてしまったような観賞後の茫然自失。官能の帝国。世界の枠組みや決まりがすべて転覆されて、タッタ一人キリ。
人生とはあの藤竜也の静かな笑顔に集約される。

_ 体を求める行動の中に、全てが詰まっているかのような映画。時間、生活、社会、死・・快感というものが、あらゆる枠組みを壊している。
その破壊力は凄まじい。
その破壊力に抵抗せずにいようとする、藤の顔に時折表れる、恐怖と予感がないまぜになったような静かな笑顔こそが人生なのではないか
死に近づく事、死、体の価値が変わっていく

_ 人が、与えられた、使える道具を、「使い尽くして」、 
「そこにいる?」「『一緒に』いようとする?」 (生きている、というのとも違う、愛し合おうとしている、とも簡単には言えない)

  
例えば個人史の中での愛の意味の拡張という連想なのか、咄嗟に思い浮かんだのが『愛の嵐』と『卍』であったが、愛の嵐では感じられなかったぬくもりをこの映画からは感じた。しかしそのぬくもりとは、ある意味では、『渚のシンドバッド』の中の、浜崎あゆみの台詞「せんせー、私、やられてる時、おもったんです。人間の体って、こんな時でもあったかいんだなーって。だから私、人のぬくもりっていうの、信じないんです」に過ぎない。

それでもこの映画の中のなつかしさ。可愛がられた犬のような忠誠。は、不可能性とともに、実在、を感じさせる。この漠然とした言葉こそが、実際、私にとって、この映画から得たもので表現できる全てであり、あとは「藤竜也の笑顔が・・藤竜也の笑顔が・・・雨が・・兵隊が・・赤とぬくもりが・・・すべての行為が・・・・・」とうわごとのように繰り返すしか実際、ないように感じる


愛の嵐という映画における悲劇性は滑稽さとさえ結びついていたのだが、愛のコリーダの喜劇性はとても恐ろしかった。

増村の「卍」にもあった、『愛についての思いがけなさ』を、感じたけれど、増村の場合は死に対する考察(や恐怖)がなっていなかった。(それが良さでもあった)
愛についての思いがけなさ。増村の卍は、奇跡的な子供っぽさで、愛の意味を拡張している、そこでは社会性やプライドは捨てられているのだが、かといって、本能的な欲望によって突き動かされるわけでもない。そこには別の次元がある。ヒューマニティと言って良いのならば、本当の意味でのヒューマニティ、人間の矛盾や哀しみを含めた意味でのその言葉が近いように感じる。

官能の帝国。藤竜也の笑顔。終末感。諦め。YOUTUBEで見た、実写のサダが思い起こされた。笑い。雨の中の傘を差している二人。最後の方、年増の芸者と男をやらせる。サダは平静だ。サダは後半、よく、「やっちゃってよ」と言う。男の表情は微かな抵抗を見せる。あの笑顔。愛のコリーダは忘れられない作品

色々な噂話を読む、愛のコリーダの中の兵隊について。事件が起きた同年、ニ.ニ.六事件なども起きたらしい。男達の帝国が築かれようとしていた年に、それとは対称的に世間は事件に夢中になった。それは原題の「官能の帝国」に表れているという。
更にバルトの「表徴の帝国」のジャポニズムも逆手にとっているとか。(フランス資本でもあり。)この戦略性には感心した。





***一点だけ今(2013年)とは全く意見が違う所:"ヒューマニティと言って良いのならば、本当の意味でのヒューマニティ、人間の矛盾や哀しみを含めた意味でのその言葉"






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