BLACK MOON, Model Yusei Yamamoto, Shot by Yokna Patofa

Thursday 31 January 2013

WHITE HEX - HEAT Frans Zwartjesについて追記有り








このバンド、マジで好き。












この激しさ、寒さ、悲しさ、熱さ、クソ泣ける。このポスターや映像からして泣ける。


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以前サラエボのソフィアへ行った時、ホテルで、とても若いG.I.と娼婦のカップルを見かけた。
彼らの若さは私をとても魅了した。---





INTENSITY,
disquieting
INTACT


rage, joy, pride … 



Not a film like a tree, with a trunk and branches, but like a field of sunflowers, a field of grass growing everywhere. Here’s the biggest rupture







この顔・・・。ブレッソンの映画に出て来そうなこの顔。堪らない。


この、果てしなく想像力を掻き立てる像たち・・・・・。何らかの職業を紛れも無く表す衣装と肉体と顔。まるでありもしない時代のアウグスト・ザンダーの肖像。だから彼らの背景は白い。


この近さ。倦怠。近さ、・・・・・倦怠。何故にこんなに切ないのか!
その傷を今年は見つめる。


追記

このHolidayの映像の引用元になっている Frans Zwartjes/フランス・ツヴァルテスについて。
以前書いた記事

http://yoknapatofa.blogspot.jp/2009/01/blog-post_23.html

やっぱりそうだと思った・・・から調べたのだけど、具体的にはどこが?
アップ。
反復カット。
存在の扱い方。
何かを待っていること

何か。この映画の中の、核心や法則が、こちらには見えていないけど確かにある感覚。
だから見ている時は私もそれに参加し、観終わるとわからなくなるので、
夢みたいで、臨場感がある、だけどそれはこの映画の世界では日常なのだ、っていうことを昔は、言いたかったのかもしれない・・


昔の記事、今読むと馬鹿な所があり過ぎて、有り得ないほど恥ずかしいけれど、日常感とかカメラとの近さ(臨)は今でも感じる
この時引っ掛かったまま全然ディグってなかった。


この人の映画はUBUで見つけた。
この時に一番衝撃を受けたのはこれだった
http://www.ubuweb.com/film/zwartjes_sorbet3.html

ちょうどラプンツェルを映画化しようとしてた時だった。

何本か見られる
今調べたらyoutubeでも上がってる








これも縁だと思うので、後でまとめます。






Monday 28 January 2013

HOLY MOUNTAIN TOUR : City 3 反米の町






反米の町





この旅に出る前に頭にあった問い、「鷺は普通に捕まえられるのか?」は、YESだとわかりました。
これで通じる人はいるのでしょうか?









Saturday 26 January 2013

HOLY MOUNTAIN TOUR:City 2 :

























飛行機はどこにでもいる、鳥はどこにでもいる、
また車もどこにでもたくさんいて、時間も光のドームの中にいる限りは、わたしを常につらぬいているように感じた。















・・・・・つらぬいていない。ほんとうは、てんでばらばらだ。

真実に触れる・・・それはそれを絡まることなく通り抜けさせるだけの、機械だけができる。時間という、-ひとかたまりなものから、手を離しながら移動して行く、もしくは、そのひとかたまりのものを、てんでばらばらな尺度で、分解し、配置する-especeの一つを、薄い道路のような場所にうまく閉じ込める。
それは孵化する事はない。まるで、死んだまねをしているかのようだ。それを何度も見返すのが、何かを覚えて何かを忘れるのが怖くなる。







今この目の前にある、世界に触れつづけたもの。
は単に、傷、というようにも見え、


また、わたしの眼を焼いた太陽はどうだろうか。
それは走っている、
灰色の片腕の欠けた十字架や、血を思わせる溶解ならば、少し散歩すればどの街でも見つかる。時制と同時に名前を表す白い落書き。光の線。誰かがその中に立っているのと同量のエーテルで充溢した誰もいない道。

やけどしそうな色。





















Sunday 20 January 2013

HOLY MOUNTAIN TOUR : CITY 1 : 大阪


















わからない・・・。むずかしい。なにを写しているのか?
後でブログにアップするつもりはなく、無意識に撮ってた
何を撮っていたのか?
 例えば、大阪の夜の道で、金髪の、ケバい感じだけどカッコいい女の人がアーケイドで、
自転車の近くにいて、撮ろうとしたけど撮らなかった。あとは美園で会った、左手の指が全部ない紳士の肖像とか・・・・・。


結局は何も考えていないんだけど。

だるい写真?
出すべきではない写真?



写真は何をつなげるのか?



私の「撮ってない人」への空白は、その人を撮る事でしか答えは出ない。
撮りたいものを撮らなければ、先には進めない。
撮りたいものが、視線という、一番伸びるはずのものを使っても、届かないほど遠くへある時、
私は歩き、何かそれに近づく手段を探しているのだろう。
だから私がAからBへの期間中の場合、
私はAからBへの重なる現実への視線を持つ必要がある。
実際には正反対のべクトル、混じり合わない色が存在しながら歩いていた?

メッセージである写真もある。思い出していた。


私は体が撮りたいのか?

街を撮りたいのか?

あの街は何度でも撮りたい。


映画。

これらの写真は捨ててもいいし、誰にも見せずにとっておいてもいい。



JUDEX。











Friday 18 January 2013

down north camp refugee market の写真




punpeeさん

















スケーターを撮った写真やzineが沢山あって、アットホームで、
すぐ目の前で段差もステージもなくマイク一本で始まる感じは、興奮した


takoyaki & mai









麻衣ちゃんは、良く写真撮らせてもらったり、映画に出てもらったりしてる公私にわたりお世話になっている方ですが、最近曲をアップしていて、
「キてる!」と話題沸騰中なので、ぜひ聴いてみてください。
(うち一つは、自分の顔の写真をアートワークにして頂いている・・・。
crows bark,
paris,texas)


twitter: @discomargaux



銀だこの、デザートみたいなパイみたいなやつ、結構おいしい。

Thursday 17 January 2013

HOLY MOUNTAIN TOUR : 3 高野山














高野山は、面白かった。お墓がずーっとある。帰って来てから、全然枚数を撮っていないと気付いた。これでは壮大さが伝わらない。とにかく延々とある。有名な人物(豊臣秀吉など・・・)のお墓もあるし、ロケット型だったり変わった形のお墓もあるし、中には苔に覆われ、崩れ、もう誰のものかもわからないくらい歳月を経ているものもある。奥の院を目指しながら歩いて、とうとう最も奥のはずの、空海のいるといわれてる所まで見た後でおばあさんに、「奥の院てどこなんですか」?と聞いたら、「今まで通って来た道全部が奥の院で、お墓が始まるところからこっち側全部はもうあの世なのだ(語尾を忘れてしまったけど、なんじゃよ、のようなニュアンス)」と言っていた。
お墓が続く森の中の道は、確かに不思議な世界に迷い込んだようだった。
動かない物たちの上に(中から)、時間が変化を与え、その変化が堆積していて、そっとされている。
それが、ずっと続いて行く。








Wednesday 16 January 2013

愛のコリーダについて、変わってない意見もあるので、書き直さずに


人生とはあの静かな笑顔に集約される
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投稿日時: 投稿者:さん
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  • ・切ない
  • ・かわいい
  • ・かっこいい
  • ・コミカル
‎_ 愛のコリーダは、シーンとシーンのつなぎ目がわからない。肉の間をかきわけて、産み出された時の事を思い出すような。自分の視界では収まり切らない巨大存在に触れてしまったような観賞後の茫然自失。官能の帝国。世界の枠組みや決まりがすべて転覆されて、タッタ一人キリ。
人生とはあの藤竜也の静かな笑顔に集約される。

_ 体を求める行動の中に、全てが詰まっているかのような映画。時間、生活、社会、死・・快感というものが、あらゆる枠組みを壊している。
その破壊力は凄まじい。
その破壊力に抵抗せずにいようとする、藤の顔に時折表れる、恐怖と予感がないまぜになったような静かな笑顔こそが人生なのではないか
死に近づく事、死、体の価値が変わっていく

_ 人が、与えられた、使える道具を、「使い尽くして」、 
「そこにいる?」「『一緒に』いようとする?」 (生きている、というのとも違う、愛し合おうとしている、とも簡単には言えない)

  
例えば個人史の中での愛の意味の拡張という連想なのか、咄嗟に思い浮かんだのが『愛の嵐』と『卍』であったが、愛の嵐では感じられなかったぬくもりをこの映画からは感じた。しかしそのぬくもりとは、ある意味では、『渚のシンドバッド』の中の、浜崎あゆみの台詞「せんせー、私、やられてる時、おもったんです。人間の体って、こんな時でもあったかいんだなーって。だから私、人のぬくもりっていうの、信じないんです」に過ぎない。

それでもこの映画の中のなつかしさ。可愛がられた犬のような忠誠。は、不可能性とともに、実在、を感じさせる。この漠然とした言葉こそが、実際、私にとって、この映画から得たもので表現できる全てであり、あとは「藤竜也の笑顔が・・藤竜也の笑顔が・・・雨が・・兵隊が・・赤とぬくもりが・・・すべての行為が・・・・・」とうわごとのように繰り返すしか実際、ないように感じる


愛の嵐という映画における悲劇性は滑稽さとさえ結びついていたのだが、愛のコリーダの喜劇性はとても恐ろしかった。

増村の「卍」にもあった、『愛についての思いがけなさ』を、感じたけれど、増村の場合は死に対する考察(や恐怖)がなっていなかった。(それが良さでもあった)
愛についての思いがけなさ。増村の卍は、奇跡的な子供っぽさで、愛の意味を拡張している、そこでは社会性やプライドは捨てられているのだが、かといって、本能的な欲望によって突き動かされるわけでもない。そこには別の次元がある。ヒューマニティと言って良いのならば、本当の意味でのヒューマニティ、人間の矛盾や哀しみを含めた意味でのその言葉が近いように感じる。

官能の帝国。藤竜也の笑顔。終末感。諦め。YOUTUBEで見た、実写のサダが思い起こされた。笑い。雨の中の傘を差している二人。最後の方、年増の芸者と男をやらせる。サダは平静だ。サダは後半、よく、「やっちゃってよ」と言う。男の表情は微かな抵抗を見せる。あの笑顔。愛のコリーダは忘れられない作品

色々な噂話を読む、愛のコリーダの中の兵隊について。事件が起きた同年、ニ.ニ.六事件なども起きたらしい。男達の帝国が築かれようとしていた年に、それとは対称的に世間は事件に夢中になった。それは原題の「官能の帝国」に表れているという。
更にバルトの「表徴の帝国」のジャポニズムも逆手にとっているとか。(フランス資本でもあり。)この戦略性には感心した。





***一点だけ今(2013年)とは全く意見が違う所:"ヒューマニティと言って良いのならば、本当の意味でのヒューマニティ、人間の矛盾や哀しみを含めた意味でのその言葉"






Monday 14 January 2013