BLACK MOON, Model Yusei Yamamoto, Shot by Yokna Patofa

Friday 20 May 2011

ピナ・バウシュ「私と踊って」

ピナ http://yoknapatofa.blogspot.com/2010/06/blog-post_27.html


私が興味があるのは、人がどう動くかではなく、何が人を動かすかということ -ピナ・バウシュ








2008年、偶然インターネットでピナのことを検索し、ちょうど来日前だということを知って『vollmondフルムーン』のチケットを買った。それ以来、あの感覚を、ほとんど毎日反芻している。

 ダンサー達は手加減なんかしていなかった。客がいるかいないかなんて、関係ないように見えた。さらに、目の前のステージで起こっていることなのに、果てしない奥行きがそこには存在していた。私は攻撃を受けていた!私は仲間はずれにされていた。私は動けない肉体を持ったまま、その壮絶に美しい生命の瞬間の連続爆発を見ていた。とにかく、物凄くぐったりしたことだけは覚えている。全身で衝撃を受けて、鳥肌が立ち、涙が溢れた。これが芸術が与えられるほんとうの感動というものなんだ、と思った。ピナ・バウシュのダンスと比べたら、今まで私が感じて来た感動とは、なんだっただろう?私の心で渦巻きはしたが、私の体を動かそうとはしなかった。帰ってからすぐインターネットを駆使して使われていたサウンドをすべて集めた。2009年は、それを聴きながら、ウ゛ッパタールを待った一年と言っても過言ではなかった。「ピナが死んじゃった」というメールを友達から貰った時、私は新宿の交差点にいた!その時の街の光景を、個人的な、歴史的事実として覚えている。フルムーンを観終わって新宿に出た時と同じ。何も変わらない。日本。ピナ・バウシュのステージの上で繰り広げられていた生命の炸裂が、誰しも産まれながらに持っているものだとしたら、この国のこの世界の閉塞感は、一体何処に正当性を持って私を縛るのだろう?(進化論が正しいとするなら)ジェネシスの森で遊びが始まった時点から、文明が始まり、文明が終わり、生き残った少数が、先祖たちが大切に崇めていたテクノロジーを喪失したことなどてんで気にもとめないで歴史の消失点の誰も見ていない所でなされる、その祀りまで、人類総体の思い出のような、大きな流れがそこにはあった。
 私はそれを生来持っている。私は昔は持っていたかもしれない、だけどすぐに無くし、今では完全にわすれている。私は完全に生命に対して手加減している。生きること、死ぬこと、そしてこの世界とは、一体どういうものなのだろうか?ほんとうの愛や、人生とはどういうものなのだろうか?そのような問いが、今でも到来する。
 




2010年、『私と踊って』を観た。
  
 会場に入った時、すでに踊りは、ずっとずっとそこにあったかのように、始まっていた。

 一人の男が、暗いステージに、後ろ向きで、椅子に座って静かな時を過ごしている。
 その視線の先の、ドアの隙間から差し込んでいる光で、かろうじてステージは明るい。ドアの向こう側では、まばゆい程白い世界の中で、何人もの男女が、手をつないで輪なって踊っては、散らばってキャーキャー騒いだり、楽しそうに遊んでいる光景が見える。男女は本当に楽しそうで、永遠にそうしているかのようだ。
 やがて、他愛もない遊びの中で、手をつないだ男女の輪の回転が、速度を増し始める。その加速が最大に高まった時、痛いほどの勢いと激しさで、そのドアが、突然バタンと閉じられる。
 一瞬、突き放されたかのように会場は真っ暗になり、間を置かずにドアのついていた壁が上昇していく・・。そして隠されていたステージの奥の白い急斜面が見え始める辺りから、黒い服を着た男達がどんどん滑り降りて来る..

全面が明るい平坦なライトの中でシンプルな美術だけ、曲も琵琶のような弦楽器と(その場での?)歌声。
 一組のカップルの出会い、すれ違い、出会い、すれ違い、出会い、すれ違い、を中心として、たくさんの黒服の男達と、さまざまな女たちによって、いくらでも解釈が可能なアクションが行われ、展開していく。
 女性は男性を誘い、恋は成就するが、男ははじめのようには接してくれなくなり、女は男に気に入られようと、言いなりになる。もしくは女は今度は男の元を去り、多数の男と空虚に接する。男は見ていないふり、かと思えば他の女など目もくれず、無様なまでに女を探す。多数の男達は生物的なまでの微細な仕草で、替わるがわる一人の女に自分の帽子をかぶせていく。この一連のシークエンスの最後が、男たちの腕を組み、一列に並んで、(恐らく)「私と踊って」と女が歌う踊りになっている。その繰り返し。
 高い斜面の上からふわふわとした白い素材の網のようなものを落として、それで女性を捕まえたり、眠気を感じるほど静かな流れのあとに、突然二本の大樹が大きな音を立てて上から落下して来たり、力の限り女性を叩き付ける仕草や、男性が女性を大きな網で捕まえる仕草、または女性はただ寝たままで荒々しく運ばれている..など、
 この辺りは、まさしくピナ・バウシュの記事を読む際に受けるイメージそのもので、どんな言葉にしても、つまらないものになってしまう。

 しかし、このすごくつまらない、ありふれたストーリーの繰り返しの果てに、ボロボロになった女性が、疲労し、愛も若さをも失い、絶望の底まで落ちた後で、よろめきながらまた立ち上がり、勢いをつけて男たちと腕を組み、「私と踊って」と歌いながら踊り始めた時には、とても感動した。

 その時男達は、まさしくシャドウのように、全く抽象的な女の人生の奥行きになり、ひと一人が生きるというそれ自体が、圧倒的な肯定とともに、迫って来た。 
 そして最後、一人のダンサーがステージの端にまで駆けて来て、客席に向かって、「COME ONCOME ON!」と叫ぶ。それをきっかけに、すべてのダンサーが、ステージの端まで走って来て、口々に「COME( ON)!」と、両手を振り、もしくは飛び上がりながら、思い切り、客席に向かって呼びかける。
 この瞬間は、ドアが閉められ、突き放された瞬間と、リンクして、強い印象を残した。
 
 この公演を観て感じたことは、女性と男性という面が強調されていたこともあり、開放(解放)的だった「フルムーン」よりももっと個人的なレベルでだが、やはり、生きるということについてだった。

  生きる事について、生まれ、生きているのは何故かと言う事に関して、答えることの出来る人なんていない。
 人生の最後に。動けなくなって、死がすぐ近くにあることを感じる瞬間を送るとして、思い出すのは、この今ありふれたまま流れている人生の、一体どこの部分なのだろう?
 いつの、誰と一緒だった時のことなのだろう?
 その時の気持ちがどんなに辛くとも、愚かな選択を繰り返すしかなかったとしても、実際にそうやって選択し生きた一つの人生があるとして、その感情や、事実は、(かけがえのないものではないだろうか?)←*この部分が気に食わないが、上手く言えない。

 この答えさえわからないが、
 冒頭の座っている男は、追憶の中にいるように見える。そのドアの向こうのまぶしいほどの世界は、男の心の奥深くのふと開いたドアから差し込んでいる光のようだ。

 ダンサー達が私たち客席で座っている者たちに向かって、「こっちへ来なよ!」と呼びかける。
 そんな所で座っていないで、私たちと踊りましょう。人生の傍観者でいないで、本当に生きると言う事をしましょう。

 それまで私はずっと見ているだけだった。白い美しい世界には決して入り込めずに。
「私と踊って」、それは最大の挑発だ。私はそれを見たとき、嬉しくて泣きそうだった。
 
 私たちは踊りたい。踊りたくて仕方がないのだ。
(2010)

 


リアルタイムではあんまり上手く書けたと思えず、感想をここに書いてなかったので..
ただ石井先生とお話して、「私と踊って」がいいと言うのは珍しいと言われたので、書いとくべきかと思った。

とにかく感動したのは一番最後。
すべてのダンサーが客席の方まで来る、
そしてこっちに呼びかける。
これで伝わるとは到底思わないが、すごいと思った。


去年、ダンスの授業をとり、それがきっかけで舞踊評論家の石井達朗先生や、太田垣君と会って交流する機会が出来、とても幸運なことに思っている。
その授業の中で取り上げられていたダンスのグループや、ダンサー(イデビアン・クルー,黒田育世(BATIK),イリ・キリアン,大橋可也,伊藤キム etc..)や、サーカスやとにかく色々には、自然に魅力を感じた。また、梅田宏明さんも面白いと思っている。

常に気になっていて、
それを気にさせたのがピナ・バウシュのヴッパタールだったけれど、
ヴッパタールを毎回日本に呼んでくれていた団体(日本文化財団)が、こないだ無くなってしまった。

いいニュースというか、気になることもあって、それはヴェンダースの監督作品「Pina」だ。3Dという話で、ピナの死後も制作を続け、完成したらしい。ヴェンダースという、それなりに色々な分野で知名度のある人が監督してくれたので嬉しい。














そして黒田育世さんが本当に気になる。
今日、雷太さんのオープニングで踊られたらしくて超行きたかった。
こないだ石井先生にも黒田さんについて物凄い聞いてしまった。
お酒をすごく飲むし、とにかく手加減なしで無邪気で天真爛漫な方らしい。




























BATIK 花は流れて時は固まる / Flowers flow, time congeals











対称的ともいえるような
池田亮じ的空間で動く梅田宏明さん・・
サッカーをやっていたというのを読んだ。マクルーハンの言葉(これからは、メディアにより適した、サッカーの方が、野球よりも人気が出る。メディアに適するという意味は、サッカーの方がチカチカして粒的で、メディアに合うし、神経を興奮させる。)を自然に思い出す。





私はダンスは本当に重要だと思うんです。