BLACK MOON, Model Yusei Yamamoto, Shot by Yokna Patofa

Friday 3 July 2009

DEAR PINA BAUSCH

http://www1.ocn.ne.jp/~ncc/
ピナ・バウシュ急逝

2009年6月30日(火)正午、ヴッパタールの入院先で死去。

今年の新作(南米チリとの共同制作)初演の楽日(最終日)、6月21日(日)には、改装されたヴッパタール・オペラ・ハウスで最後のカーテン・コールに登場していました。その後入院し、癌と診断されたわずか5日後に不帰の人となりました。

ピナ・バウシュは生命のかぎり心血をそそぎ、1968年の初振付作品「フラグメント」以降、これまでに52作品をつくりあげ、世界中の観客に体温を感じさせる、音楽とことばによるピナ・ バウシュの世界、タンツテアターを確立しました。

ピナ・バウシュは、これからも自分の作品が世界中で上演されるようにと言い残し、穏やかな表情でこの世を去りました。(日本文化財団)


今日は、映画の、父役と母役の方々との、初のミーティングでした。(決定しました。)
すごく楽しかったのですが、帰りに、渋谷の交差点の所で、メールを見ると、友達の麻衣ちゃんから、「ピナ死んじゃったの知ってる?」とメールが来ていた。

ピナ・バウシュが来日するのを、冗談じゃなく、今か今かと待っていた。
毎日何かしら、考えていたかも。
去年、初めて観て、今までの人生で観た色々な芸術の中で、一番感動したと思った。
その頃サントラが出ていなかったので、ちょっとでもあの感じを追体験したくて、ネットで調べまくって探しまくって覚えてる曲全部集めた。
ヴッパタールにもいつか行けたらと思って行き方も調べていたのに死んでしまった。
「彼女は嫌い、だけど彼女がいないと生きていけない」という、ピナのダンサー達の言葉を思い出した。
私でさえ、こんな気持ちなのだから、彼女と実際に関わった人々の様子は想像できない。
ピナ・バウシュの公演を観たのは、結局去年が最初で最後になってしまった。
自分の人生の中で、最も感動した瞬間て、パッと聞かれたら、たぶんピナ・バウシュの公演って答えるだろうと思う。
これからそれを超えられる体験に出会えるのか、わからない。
ピナ・バウシュのステージには全てがあった。
全てがあった上で、それは強く生きる方へ押し出すものだったと思う。

ピナ・バウシュ編集する全体に公開
2008年03月31日22:55
感動した。感動した・・・。

WEDNESDAY, 2 APRIL 2008
ピナ・バウシュ観て、
エンジョイ、って言う事の意味がすっとというか、ベチャッと、存在自体が溶血してそれが回復する段階ですとんとわかって来た
すでに高野さんから、遊ぶ事の重要性については聞いていたが、そして深く理解していたが、そういうアーティストが今後の世界の中で人々の絶望をなくすために、すごく重要なのは確かだけど、自分はそういうタイプの人間ではないと思っていた。
しかし今回、アーティストの目的、また絶対必要な姿勢として、一見しての色は違えどやはり究極の所はそれしかない、程度にそれを信じ込まざるを得なくなった。パレルモ・パレルモの方が、うわさでは恐らく社会の問題が含まれてて、フルムーンなんて全く政治的じゃないのに、そういう社会が良くなって行くためにはていうような事を,物凄く感じたのはやはりピナ・バウシュの根底にある態度からなのか?それとも深く衝撃を受ける時、何も出来ていない自分を通って、そういうとこへ自動的に考えが行く生物なのか?(人間)
ダンサー達は全力で踊っていた。その全力さたるや、本当に凄く、でも全力なんだけどものっすごい楽しい、そして哀しい。ピナ・バウシュのような人がいるから、凄い人は更に凄いを目指せるんだろうな  でも人間という限られた存在の中での、遊びof遊びってああいう事だと思う あの中に、私がいてもおかしくない。ていうのは、ダンサーとしてじゃなくて、世の中の一人として、おかしくないどころか ああいうのが絶対私の中にも有る。 またしても、日本の閉塞感と、日本人である事を感じた。 
あといくつかピナバウシュ見て色々を知ってからずっと考えてる事があって、一つは自然な意味での宗教でもう一つは言語で、これはピナバウシュについて皆言っていることを読んでいて、それを聞いて私も考えざるを得なくなった。というのは、ピナ・バウシュ本人が「説明の要らない表現」というように、本当に説明が要らない身体表現だったからだ。それがなんで説明が要らないのか、でもよくわからない!表象文字のような感じといったらそうだけど、でもゼッタイ物質としてない、この世にないものまでも含んだ表現で、で、それがなぜ直観的にわかるんか、よくわからない!本当に、ピナバウシュの姿勢は追求と言う感じだなあ これまでコンテンポラリーダンスや舞踏は観て来たけど、究極的には「べつに。」という感じだった。ロンドン行った時、テイト・ブリテンを別にいいやと思って観て来なかったんだけど、(今はちょっと後悔してるけど)そんな感じ。いつでも見れるしコピーも氾濫してるし、美しさも予測可能な範囲だ
 でもピナ・バウシュの舞踊は違った。
宗教については、究極的なとこ行くとゼッタイ行き着くとことしての宗教で極めて抽象的に自分の中では使ってる言葉だ。例えば、サッカーのプレーを「芸術的」というような感じで、宗教的って言葉を使ってる、芸術に芸術的って言ってもおかしいのは確かだけど、褒め言葉のステージが上がって宗教、とかって意味じゃなくて、多分なんかあるんだろうけどこれから考えようと思う




MONDAY, 31 MARCH 2008
ピナ・バウシュ
rupturedっていう感想をピナ・バウシュに送ったんだけど、ちゃんと調べたらなんか結構生々しい単語らしく大丈夫かな?と思いつつも、やはりsplitというよりはtearというよりは、rupture、という感じで(raptureが日本人としては単純に連想されてしまう事もあり)
ピナ・バウシュくらいになるには、やっぱりあのくらいの舞台が出来るんだなあと思った。
物凄く鳥肌が立ち、ゲンナリした、
物凄い才能、昔の人みたいだ、でも古代の人たちよりも確かに進んでいる
すごい簡単に言うと死にたくなった
デュラスの映画観た時も思ったけど、ヴッパタール観ながらのが本当に哀しい夢としてのリアリティがある
すごい歓喜、life explosionだったな
this is what i want!!!!!!と叫ばざるを得なかったな
Dies ist das, was ich will!!!!!!! ?
選曲も凄い「進んで」た。トムウェイツ、キャットパワー、アモン・トビンが、私には非常に意外な選曲に思えた。でもハマってたと思う
冒頭と最後のあの踊りがヤバい。
「感情そのもの」て感じがした 爆発し、わけがわからないまま躍動してぶつかり、踊り続ける わけがわからないまま 
だけど物凄いわかる、あの動き、初めて見たのに物凄くわかる、
結局、「あれって何なんだったんだろ?」って思わざるを得ないんだけど、
次には「あれ以外はなんなんだろ?」っていう瞬間が来る気がする
やっぱり世界はすごいな。。
いくらでも、いくらでも凄い人はいる
でも中でもピナ・バウシュはやっぱり凄かった。





ご冥福をお祈り致します。