BLACK MOON, Model Yusei Yamamoto, Shot by Yokna Patofa

Friday 23 January 2009

詩人ヨーゼフ・アッティラの少年期

詩人ヨーゼフ・アッティラの少年期
原題: Ongyilkossag
製作国: ハンガリー
製作年: 1967
配給: 新日本映画社(アミューズビデオ=シネマ・キャッツ配給協力
スタッフ
監督: Kosa Ferenc コーシャ・フェレネック
撮影: Sara Sandor 
字幕: 岡枝慎二 オカエダシンジ
キャスト(役名)
Stern Miklos シュテルン・ミクローシュ (Jozsef Attila)
解説
ハンガリーを代表する天才プロレタリア詩人ヨーゼフ・アッティラ(1905ー37)へのオマージュを捧げた一編。アッティラは32歳の若さで鉄道自殺を図っているが、彼の詩はその死後もハンガリー動乱、共産党の独裁政治といった暗黒時代においても、世代を越えて支持され続けた。本作品は、そのアッティラの少年時代の自殺未遂事件を軸に、彼の詩の世界の映像化に迫ろうとした、いかにも短編映画らしい試みがなされた作品といえる。幻想場面での寒々しいハンガリーの原野の光景などが見どころ。監督はコーシャ・フェレネック。
ストーリー※ストーリーの結末まで記載されていますので、ご注意ください
少年アッティラ(シュテルン・ミクローシュ)は今日も石炭を機関車から盗みだし、家に持ち帰って来た。途中、騎馬警官に追われたが、近所の人は心得たもので少年をうまく逃がしてくれた。ひと仕事終えた気分でアッティラが煙草をふかしていると、姉が帰って来て、彼を見つけてほっぺたをひっぱたく。彼は泣き出し、姉は部屋を出て行く。腹いせに彼は自殺しようと決め、いやな姉が近所の皆にいびられる様を想像しながら、ストーブのわきの苛性ソーダらしき粉末を飲み下す。寝入った彼は自分の死を悼んでくれる母や近所の人々の姿を思い描き、甘美な思いに浸る。やがて、苛性ソーダをアッティラが飲んだと騒ぐ姉の呼び声に近所の人が集まってくる。しかしアッティラの母が彼が飲んだものを指差させるとそれはただの小麦粉だった。騒ぎが静まり、母と2人きりになったアッティラは「僕を叱って」と頼むが、母は優しく微笑むばかりだった。

六十年代くらいのフィルムメーカー


凄い人を見つけた。 私は元々不勉強なのもあるけど、有名な人なのだと思う。
最初、読む場所を間違え、二十年代の作家かと思い、
個人的に、二十年代で見つかるというのはすごく意外だった。
でもその後、二十年代後半に生まれたのだという事がわかり、
実際に制作したのは、その映画は、やはり六十年代くらいだったのではと思う。これは物凄いガッカリだった。
 二十年代のことが想像出来なくて、「人間の新鮮さ」「鋭い実験精神」みたいなものが、この、
もう映画に満足した上で全て捨てている「軽やかさ」 「冷たさ」「覚醒」「潔さ」が、映画のできたての二十年代で既にあったのだと思うと、驚いたし、(逆に今はほとんどが映画にしがみついて、または安住している ように私には見える。)

一応実験映画作家ということになるのだろうけど、実験映画とか関係ない、実験ではない、映画の本質をそのまま表していた。(*映画の本質とは何なのか・・・)
ラング、ムルナウ、無声映画に対する憧れは、確かにあるけど、無声映画一般に対して私はあんまり反応できるタイプではない。トゥーマッチな厚さ線のヘヴィさを感じるのあるし、声が好きというのもある

でもこの映画には、音の有る無しには言われるまで気づかなかった。 

そもそも、私達は現実的に過ごしている時、音があるか無いか、あまり意識的ではないと思う。
呼びかけられる瞬間がある。

空気感・・
「臨 日常感」がある これは臨場感なのだが、はらはらドキドキとかでわかりやすくあらわれる臨場感ではなくて、
ふっと真空状態や、世界の裂け目にはまってしまうような感じで、
一見、日常とは正反対の感覚に思えるが、私には日常としか言えない。

 忘れられない映画がある。コーシャ・フェレンツの映画だ。
 コミュニティを作ったのに誰も入らず、消えてしまった。
 コーシャ・フェレンツについて、「それ程記憶にない」と皆言う。
 皆、トリュフォーとゴダールの処女作に興味があるのだ。
 だがこの、カンヌでグランプリもとったこともある映画監督の映画は、
 一つしか観る機会がないけど今まで観た映画の中で最も美しいと思う。
 コーシャ・フェレンツの映画にも余りにも哀しく退屈な日常感があった。
 退屈と言ったが、わかりやすい退屈ではない。退屈な長回しとか起伏のないストーリーとか、そういうのではない。
 子供の頃夜早く眠りにつかざるを得ないような退屈さだ
 鍵っ子で、誰もいないガランとした家で夏休みをずっと過ごす時に感じるような退屈さだ
 私はコーシャ・フェレンツを偉い人に評価というか、色々言ってもらいたいと思う。
 評価しやすい監督でないのは確かだ。
 出る人数の少ない冷めたフェリーニ、とでもいう感じなので。
 最近観ていないので印象が変わっているかもしれない。今日また観に行こうと思う。
 出来れば自分で上映会とかもそのうちしたい(自分がまずは観たい)けれど、
 ハンガリー語はけっこうかかりそうだなと思う



具体的にこの、最初に言った映画作家のどこが好きだったのか・・・
 とにかく構図・・
 構図がそのまま自分に直角に機能してくるような神経質。

Tuesday 13 January 2009

PV完成!!!IN BROKEN ENGLISH/ TIME IS A THIEF

time is a thief屋上で抱き合う二人
time is a thief 青い炎
time is a thief映画館4
去年から作っていたPVがとうとう完成出来ました!
出演、協力して頂いた皆さん、ありがとう!

バンドの方にも、日本語のクレジットを含めて名前を入れてもらって、
近々アップされると思うので、ぜひそっちも見てみてください。
In Broken English/ Time is a thief


http://jp.youtube.com/watch?v=_rUy9-fj2i0&feature=channel_page

Time is a Thief
(Callie Uleners/ Gregg Anthe)
Performed by In Broken English
Directed by Yokna Patofa

Actor: Mai Nishino,Ryou Kiriakehata
Shot by: Mai Nishino, Tom Hara,Yusuke Tanabe, Yokna Patofa
Lighting:Keishi Kondo
Special thanks:Tika Fukui,Mariko Inoue,
Directed by: Yokna Patofa


出演:西野 麻衣,切明畑 遼
撮影:西野 麻衣,ハラ トム,田邊佑介,ヨクナ・パトーファ
照明:近藤 景詩
協力:福井千華、井上真理子
監督:ヨクナ・パトーファ
(c) 2008 Yokna Patofa / In Broken English. All rights reserved.


In broken English(FR) http://www.inbrokenenglish.com/
http://www.myspace.com/inbrokenenglish
yokna patofa (JP)http://space.geocities.jp/qbbhq401/

・出演者の麻衣ちゃんときりちゃんは、Disco del reyと、天国畑というバンドをやっている。
・ケイシ君とも話したのですが、このビデオは仮アップの段階から今まではない感じでいい意味でも悪い意味でも反応があり、それが面白かった。
・テーマは九十年代で、
・イメージは曲を聴き始めた当初より、ミスター・チルドレンのイノセントワールドのPVの、記憶にある箇所だった
・きちんとは使っていないお蔵入りシーンで、墓地のシーンがある
・映画館のシーンは早稲田松竹を借り切って撮影
・海のシーンは、麻衣ちゃん、ハラさん、私の三人のカメラが組み合わされている

詳しくはこっちのトピックの方に色々載っているので合わせてぜひ!
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=34987395&comm_id=3162358
怖くて読み返せないけどだいぶ変わってると思う。

このビデオは自分の今までの中では無防備なんだと思う。
今年は無防備=挑発、 という部分を持つのが目標

2009年は、VJも含めて大画面で上映したり、色々な人に現実的に会って話したい。

Tuesday 6 January 2009

愛の問題、記憶の問題

愛は記憶の中に存在する、記憶は脳の、ニューロンの中に存在する。
ニューロンも、ニューロンのある脳も、脳を持つ人間も、その本質と根本からして間違っている。
人間の作った物事もすべて、どうでもいいものである。
何もかもが、「現実的に、冷静に考えて」、偽物、認識されないゴミである。
人間は食べる為に生きている。食べるためにお金が必要で、その為に働いている。
また、適当な「おしゃべり」で、この人生をやり過ごす。
フォークナーの、最も恐ろしい物語だと自ら言った、「サンクチュアリ」。
その恐ろしさは、ハイデガーの言う意味での「おしゃべり」の無い人間にとって、生とは、ということなのではないだろうか?
私には基本的に、
前にバイトで一緒だったカトリックの子が、イエスさまを信じている人たちって基本的にすごくポジティブなのよ、(この語尾では無かったと思うけど感じ的に。)
と言っていたんだけど、それと同じような、根底的な感じで、
この、全部、今あるものは虚像っていうか、全然嘘であるっていう、
絶対的な確信があるし、(ネガティブ、ポジティブの関連の意味ではなく、「それが知・・の根幹である」、という意味で)
快楽も含めて、この世の全ては苦しみであるってのが、一番正しいと思う。
だけど同様に、多幸感に溢れた発想ではあるが、
その、何もかもが平等に無意味な世界の中で、
芸術が最も実用的に作用する、と考えている。
つまり、芸術は無意味と考えられているが、具体的、実用的に、五感の次の感覚、霊感とかそういう意味ではない、六番目の感覚に、最終的になるんじゃないかとずっと思っている。
記憶、歴史、ではなく、哀悼、芸術、というストリームが、今使える言葉で言うのなら、愛が一番近いニュアンスなのだが、共感、テレパシー、になり、虚像であったすべての「在る」ものたちが、時間が、一つの塊になり、第六感になる。
 その第六感については、どういうものか、私は想像できない。ただ、太陽の刺激によって目が生まれた、というような形で、愛があるから、その感覚が生まれる、というのは、(間違っても、「優しい心」とかそういう意味で私は言ってるのではない)有り得ないことではないと思う。
それで人間がどうでも良くなくなるのかどうかという問題については良くわからない。
でもその時はもう人間じゃないのだと思う。
第六感があるから、全く違う、魚類くらいからまた進化が始まるんじゃないかって思う
←ほんとに進化論が正しいとすればの話で

前に話したのは、もう進化は訪れない、
人間は、人間以上のものになれなかった者達の群で、猿が人間にならないように、(この序列的な表現を便宜上するというなら)、人間の上にもっと全然いるんだろうねって

しかしやっぱり、この生というのは、やっぱり全部、過去なんだと思う
だからこそ、映画にひかれるってのはある。
だって、なんで、死があるのかっていうのは、やっぱり生が、時間と共に過ぎて行くから、現実とか現在とかそういう意識があるんであって・・
全部過去なんだと思う ふつうに。
だからって何もやらないのか、やるのかと言えば、遊べばいいと思う。
ピナバウシュがだからやはり一番正しい。
ホモルーデンスが一番正しい。ホイジンガが。
人間は、遊ぶしかない。
全部遊びなのだと思う。思うというか、冷静に考えてそうだ。
大体において、食べて、寝て、交尾して、生殖するのが本質なんだから、
それしかないだろと思う
そしてやはりそれについて考えるのは切ない。
ピナバウシュにはだから引き裂かれる